note.16「川沿いの道、水のおと」



水の音を聞くと、とても安心する。

小さい頃から、多摩川の川辺で良く遊んでいたからかもしれないが、わたしが「水のおと」をイメージするといつも、海に波の音でも、プールに飛び込むあの、ざばーんっという音でも、流しの閉め忘れた水道から零れる水滴の音でもなく、決まって明け方の、まだ周囲が静まりかえっいる頃の静かな川の流れを思い出す。
いったん耳に馴染んでしまうと、無意識のうちに現実から排除されてしまうその音が、なぜか記憶の中では克明に、圧倒的な存在感を持って浮かび上がってくる。

ある時期、私がとても弱っていて、いろいろな人に迷惑を掛けていた時(もちろんいまでも、いろいろな人に迷惑を掛けているのだけれど)、ある人に明け方の散歩に連れ出してもらったことがある。ちょうど今くらいの季節だ。夜が明けたばかりだというのに、夏の日差しが容赦無く照りつけてきて、その人の家から川までの道のり遠さは、かなりわたしを疲労させた。
それでも黙々と歩くその人の後について、何とも言えない気持ちのまま川までの道を歩いていった。
やっとのことで辿り着いた川は、普通の川で、本当にただ、着いたとしか言いようのない、川で、その光景を見ていると、前の晩から続いている疲労感がよりいっそう重たくのしかかってきた。
川沿いにあるベンチに腰掛けて、コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチをそれぞれ食べて、何を話すでもなく、かなりの時間二人でボーッと川を眺めていた。

これといって特徴のない、普通の川を、ボーッと。

よく覚えていないのだけれど、その間(ずいぶん長くいたはずだから)二言三言のちょっとした会話は交わしたのだろう。
けれどわたしの記憶にある音は、川の上流からゆっくりと流れている水の音だけだ。夏の始まりを予感させる強い日差しや、食べきれなくなってあげてしまったおにぎりや、黙り込んだその人の横顔や、そういった情景なら、どこまででも細かく思い出せるのに、「音」に関する記憶だけは、ぽっかり欠落していて、ただただ水のおとが浮かんでくる。

その時期の記憶は、大半が「ある欠落」によってわたしの中に存在し続けている。
今になって、やっと、あの時の、あの長い散歩の中の、「水のおと」以外の音を思い出そう、と思う。
わたしは、思い出さなければならないのだと、思う。


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